僕が初めてロンドンを訪れたのは、そう。今から28年前のことだ。
BOØWYのサード・アルバム『BOØWY』のベルリンでのレコーディングを終え日本に戻る前に
ロンドンの伝説のライブハウス「Marqee Club」でライブを行う為に数日間滞在した。
バンドはGreen Parkにある「Half Moon Hotel」という洒落た名前のホテルに宿泊した。
スーツケースを開けば寝場所がなくなるくらい小さな部屋に、僕はベースの松っちゃんと同じ部屋に泊まったと思う。
ホテルの近くには当時最先端のファッション好きに知られる「クローラ」というグラマラスなブティックがあった。
飾られているスーツやコートは僕らには到底手のでない、一桁も二桁も違う値札がついていた。
少年時代からロンドンの音楽やファッションに首ったけの僕にとって、ロンドンはまさに憧れの街。
限られた滞在時間でどれだけ多くのブティックやレコードショップを回れるか。
文字通り足が棒になるほど、歩いて歩いて、また歩いた。
キングス・ロードの「BOY」や「ジョンソンズ」、ケンジントン・マーケットやカムデン・マーケットでは古着の革ジャンを探した。
ハイパー・ハイパーという最先端のショップには、パンキッシュでアバンギャルドなぶっ飛んだデザインの服が売っていたっけ。
SOHOでは日本では手に入らないレアなパンク/ニューウェイヴのレコードを買いあさった。
「クレイジーカラー」という絵の具のようなヘアカラーを何色も手に入れた。
当時は今のような優れた脱色剤はなく、僕はいつもブリーチ剤をシャンプーのように塗りたくって
時にはそのまま外出したり、酔いつぶれて寝たりしていた。
今もこうして少しでも髪に毛が残っているのは奇跡的と言うべきだろう。
英語は喋れない。バスも地下鉄も判らないどころか自分たちの居場所すら判らない。
時として無知は武器となり「開き直った者の勝ち」の精神で、果敢に外人にしゃべりかけていた。
ラバーソウルの底がすり減るほど歩いたものだ。
ベルリンでのレコーディングからカメラマンのハービー山口さんが僕らに密着し撮影をしてくれていた。
ハービーは一時期ロンドンに暮らし、学び、その穏やかな視線をファインダーに向け、
ロンドンの美しき風景やパンク~ニューウェイヴ時代の象徴的なミュージシャン達の素顔や横顔、
そして人々の憂い溢れた表情を写し取り、日本でも熱い脚光を浴び始めていた。
壁崩壊前のベルリンの街はどこに立っても重厚な歴史の影を纏い、重苦しい空気に溢れていた。
僕の大好きなDavid Bowieのベルリン三部作「LOW」「HEROES」「Lodger」が生まれた街。
僕らはデカダンスの空気を胸いっぱいに吸った。
凍てつく街角で撮影した数々の写真はとても思い出深い。
そしてロンドンに場所を移し、僕らはさらに撮影を続けた。
ハービーのおすすめのロケーションを四人は小さなバスに乗り巡った。
どの場所もほんの数分だけの撮影で、僕らは自分たちが何処にいるかなんて全然判らぬまま
ハービーのシャッター音を楽しんでいた。
ロンドンにいる。
それだけで嬉しかった。
2012年。
僕は世界への夢をあきらめきれず、ロンドンに移り住んだ。
若し頃は誰もが刺激物が大好きで、僕も例に漏れずロンドンの尖ったところに惹かれたものだ。
最先端と呼ばれるものすべてを求め、夜な夜なクラブを巡ったり、ちょっとヤバそうな一角に足を踏み入れたり、
徹夜なんて日常茶飯事。二日酔いは元気な証拠。
そんなデタラメな時期もあったものだ。
一所に留まることなどできず、いつも明日に向かって走っていた。
だから、今自分がいる場所すら意識をしていなかったし、景色はいつも風の中にあった。
しかし今は違う。
人間、誰もが年をとることには逆らえない。
アンチエイジングなどというその場しのぎのようなことはせず、
いかに自分らしく熟成(エイジング)を重ねるかが大切だと思っている。
今はクラブには行かない。夜中を過ぎれば眠くなってしまうからだ。
朝が早いのだから仕方がない。
そのかわり、朝はなかなか忙しい。
家族と一緒に目を覚ましベッドから出て、リビングのカーテンを開き、愛犬に水と朝食を与える。
時には家族のためにキッチンに立ち、グレープフルーツやオレンジでフレッシュなジュースを絞り、
卵料理とベジタブルにこんがり焼けたトーストを添え、豆を挽き香り立つ美味しいコーヒーを入れる。
娘を学校に送り、ルーリーとジョギングに出かけ、戻れば車の荷台にゴムのチューブを巻き付け
青空ジムでトレーニングをする。(青空の確率はかなり低いのだが...)
メールチェックや、東京とのスカイプ会議をしたりしていると、あっという間にランチタイムだ。
近くのカフェにベーグルでも食べに行こう、とまた街に歩き出す。
近所の庭の木々や草花の変化を眺めながら、季節の風の匂いを嗅ぎ、
身体のパーツに意識を巡らせながら歩く。
踵、足首、ふくらはぎ、太もも、腰、背骨、肩甲骨、肩、腕、手首、指先、首、目、頭...。
意識が体中に行き渡ることを感じながら空を見上げると、それがたとえ嵐の前触れのような暗い空であろうと、
幸福を感じられるものだ。
先日いつものように家の近くのテムスの川沿いをヘッドフォンで新作の「嵐が丘」を聴きながら歩いていた。
前日の雨で水かさが増していた川には、統制のとれたリズムで力強くボートを漕ぐ少年達の姿があった。
渡り鳥の群れが空に大きな五線譜のような美しいフォルムを描いていた。
気温は低かったが、春はそう遠くない、と思わせるような柔らかい空気が漂っていた。
ふと目線を前に戻した瞬間、僕は目の前の風景に釘付けになった。
心臓がドキドキして、胸が苦しくなった。
まるで呪文によって時の扉が開くかのように、その風景はすべての記憶を呼び覚ました。
その場の写真を撮って駆け足で家に戻り、もう一枚の写真を探した。
二枚の写真を並べた瞬間、追憶のパズルはカシャリと音を立てて完成したのだった。
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やはりそうだった。
それはあの日、バンドのメンバーと撮影の為に一瞬だけ訪れた、思い出の場所だったのだ。
これを奇跡と、運命と呼ばず、なんと呼ぼう。
この時、僕らは川の向こうに何を見ていたのだろう。
きっと同じ未来を見つめていたに違いない
その視線がまた一つになる日はもう来ないかもしれない。
「嵐が丘」という曲は、BOØWYの頃の曲作りの感覚を思い出しながらギター一本で作った曲だ。
さらば愛しき日々よ 心燃やした恋よ
語り明かした友よ 想い出に背を向けて
果てなき明日を行こう胸の彼方に浮かぶ
輝く虹を目指し もう一度旅立とう
さらば愛しき日々よ 心燃やした恋よ
語り明かした友よ 想い出に背を向けて...
ロンドンはやはり、約束の地だったに違いない。
僕はこの橋を28年かけて渡ったのかもしれない。
輝く虹は、この空の向こうにきっとある。
僕はそう信じている。