所属事務所の社長、糟谷さんの娘さんの結婚式に参加させていただいた。
糟谷さんとの付き合いはBOΦWYがユイ音楽工房と専属契約を結んだ時からの
20余年に渡る長い年月となる。
バンドが解散し「日本一の次は世界一の夢を一緒に叶えませんか」と誘い、
ユイから独立しスタートしたのが今の事務所。
英国アビーロード・スタジオにて全曲英詩で録音した「GUITARHYTHM」が
世界への夢に挑む我が社の記念すべき第一作目だった。
その後ロンドンに小さなオフィスを構え、第二の拠点とした。
ロンドンで過ごした数年間から学び得たものは計り知れない。
多くの人々と出会った思い出の地でもある。
故マイケル・ケイメン、ブライアン・メイ、ロキシー・ミュージックのアンディ・マッケイ、
ジーザス・ジョーンズやジグ・ジグ・スパトニックの面々やストラングラーズ、エイジア、アポロ440など、
多くの仲間と出会い、音で遊び、戦った。
写真家ハービー山口がある日こう言ったのを覚えいている。
「日本から扉を開いてもそこはまだ日本だけど、ロンドンから扉を開くとそこには世界が在る」
かつて海賊が如く世界を制覇したビートルズもストーンズも、英国の誇り。
ロックン・ローラーに勲章がもたらされる国は英国だけではなかろうか。
そんなロックな国のロックな街「ロンドン」から、俺たちは世界を飛び回った。
ベルリン、アムステルダム、パリ、ヴェニス、ニューヨーク、ロサンゼルス
モンセラット島、カプリ島、バルバドス島、レマン湖
中国、韓国、スペインetc...etc...。
一年でパスポートが出入国のスタンプで真っ黒になる。
そしてその合間は日本を全国ツアーで飛び回っていた。
旅に次ぐ旅、そしてまた、旅。
糟谷さんは30代後半から40代、50代、そして昨年めでたく迎えた還暦までの貴重な年月を
「布袋寅泰」のために捧げてくれた。
「布袋の音楽」を信じ、バックアップし、権利を主張し、守り、
楽しみ、戦い、時には迷い、ぶつかりながらも、気づけば誰よりも長い間そばにいる。
そんな戦友とも呼ぶべき人が、その日は花嫁の父となった。
自分も娘を持つ父親となり、その存在の大きさを知る今、思う。
愛娘や息子が一番可愛い時期、家族団らんの時間を欲していたであろう時期に
俺は彼を仕事で独占していた。
そのことを一言謝りたくて、スピーチのマイクを握らせてもらった。
「あの頃、お父さんを独り占めしてしまって、ごめんね」
しかし彼のおかげで、自分は多くの音楽を生み出し、多くの人に伝え、誰かの心の支えになることもできたのだ。
ごめんね、ではなく、ありがとう、と言うべきであった。
先日の復活祭。
それは紛れもなく感謝祭であった。
心配かけてごめんね、という代わりに、ありがとう。
ジェフ・ベック・モデルで奏でる「THANK YOU」。
これからもずっと弾いていきたい曲となった。
パーティーも終わりに近づいた時、ビデオレターが紹介された。
糟谷さんが初代マネージャーを務めた長渕剛さんからの素敵なメッセージは
「糟谷さんがいなければ、今の自分はいない。ありがとう!」
という内容のものだった。
そして最後にピアノの弾き語りで「乾杯」を歌った。
会場は静まり返り、そして大きな拍手が波のように広がった。
長渕剛、BOΦWY、そして布袋寅泰をここまで大きくしてくれた糟谷さんは偉大な男だ。
そんな糟谷さんは、先日突然頭を剃った。
柄の悪い人に見えるかと思いきや、何だか僧侶のような研ぎすまされた優しさを感じる。
少し照れくさそうではあるけれど、新たなスタートをきったような晴れ晴れしさがある。
いつもはお洒落なハンチングやベレー帽を深々とかぶり、ヨージ・ヤマモトを纏い、ハードボイルドで謎めいた風貌の彼が
花嫁の父として教会に立つ姿は、静かで穏やかで堂々としていた。
その姿を後ろから見つめながら、様々な事柄が頭に浮かんでは消えた。
いつか自分もこの立場となる日が来るのだろう。
娘の幸せより大きな幸せはない。
若くして亡くなられたつかこうへいさんの残された遺書には
「思えば恥の多い人生でございました。先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています」
と記されていたという。
強い人だ。
出会ったすべての人々に感謝出来る日がくるように、自分の弱さ、脆さ、不甲斐なさを受け入れなければならない。
長くて短い人生は一期一会。
目の前にいる人を大切にしよう。